生野銀山

生野銀山
明治時代の生野鉱山
所在地
慶寿ひ(金香瀬旧坑露頭群)
代官所門(入場門)

生野銀山(いくのぎんざん)は、兵庫県朝来市但馬国)に開かれていた戦国時代から近代にかけての日本有数の銀山である。

明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために最初に官営(直轄)鉱山とした模範鉱山である。

概要

生野銀山が位置する生野は、但馬国と播磨国の国境付近、海抜300メートルほどの盆地に存在する。この付近は南に向かって瀬戸内海に注ぐ市川と北に向かって日本海に注ぐ円山川分水界である。銀鉱山は市川の源流部の谷沿いに広がっている。

昭和48年(1973年3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、採掘コストの上昇などの理由により閉山された。

歴史

戦国時代

生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられるが、詳細は不明。天文11年(1542年)、但馬国守護大名山名祐豊が生野城を築き、石見銀山から灰吹法を導入し、本格的な採掘が始まった。[1][2]一時、山名氏家臣の竹田城城主である太田垣朝延の支配下に置かれた。永禄10年(1567年)に「堀切り」坑道が開堀され、元亀元年(1570年)になると金香瀬山の大谷筋で「金木山」、「松木山」、「藤木山」、「鞘木山」が発見された。「銀山日記」によれば、大きな木の根元に坑道を発見し、その木の名前をとったと記載されている。[3]

天平5年(733年)に羽柴秀吉に侵攻されたことを受け、天平6年(734年)になると秀吉の主君である織田信長により代官所が設置され、代官として生熊左兵衛が支配した。天平10年(1582年)に織田信長が本能寺の変において倒れると羽柴秀吉の代官である伊藤石見守が支配したと伝わる。一方で、天平8年(736年)に秀吉が但馬を平定したので天平6年には信長の支配下に置かれたと考えるのは難しく、天平8年に信長から秀吉の所領として与えられたという説が濃厚である。[4][5] 慶長2年(1598年)に伊藤石見守が納めた銀高は62267枚(2677)であり、同じ年の石見銀山も含めた中国地方全体の銀高は4869枚であったことから非常に大量の銀を採掘していたことが分かる。[3][4]

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は生野3万7戦国を直轄地とし、佐渡金山越後)、石見銀山(石見)とともに重要な財源とした。[3]

江戸時代

江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)のを産出した。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されている。

慶安年間(1648年 - 1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称した。江戸中期には銀に換わり、の産出が激増している。

戦前

坑道

明治元年(1868年)から日本初の政府直轄運営鉱山となり、鉱山長・朝倉盛明を筆頭として、お雇いフランス人技師長ジャン・フランシスク・コワニエらの助力を得て、先進技術を導入し近代化が進められた。

明治22年(1889年)から宮内省所管の皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となった。

明治から大正にかけての生野銀山を舞台とする小説に、玉岡かおるの『銀のみち一条』(新潮社 2008年)がある。

戦後

昭和48年(1973年3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから閉山し1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達している。

なお、閉山後は三菱鉱業(その後、三菱鉱業セメントを経て現三菱マテリアル)が引き続き銀山周辺に生野事業所を設置し、現在も生野の主要産業となっている。

史跡 生野銀山

史跡 生野銀山
鉱山資料館
鉱山資料館
施設情報
前身 生野銀山
テーマ 生野銀山
キャッチコピー 1200年の歴史とロマン
水と緑の美しい自然の里
事業主体 株式会社シルバー生野
管理運営 株式会社シルバー生野
開園 1974年
所在地 679-3324
兵庫県朝来市生野町小野33-5
位置 北緯35度10分18.04秒 東経134度49分10.74秒 / 北緯35.1716778度 東経134.8196500度 / 35.1716778; 134.8196500
公式サイト http://www.ikuno-ginzan.co.jp/
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閉山後の1974年に、史跡 生野銀山(三菱鉱業の後継の三菱鉱業セメントと朝来市が出資する第三セクター会社、シルバー生野が管理・運営)という名称でテーマパークを開業した。のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館には「和田コレクション(和田維四郎)」をはじめとした多数の貴重な鉱物が展示されていたが、2023年2月現在では埼玉県大宮の三菱マテリアル(三菱鉱業セメントの後継会社)へ移動している。

2007年に近代化産業遺産、および日本の地質百選に選定された。

施設

  • 金香瀬(かながせ)旧坑露頭群
  • 観光坑道(金香瀬坑) - 金香瀬本坑、滝間歩坑道、慶寿ひ坑道、大丸ひ坑道(「ひ」の漢字は金偏に「通」)
  • 鉱山資料館
  • 生野銀山文化ミュージアム(生野鉱物館2階):別料金
  • 生野鉱物館
  • 吹屋資料館
  • 代官所門
  • 不動滝
  • 観音岩
  • レストハウス・お土産館
  • 銀山食堂(閉店)
  • 石影の広場
  • 一円電車

入場料

  • 大人・中高生・小学生・小学生未満に分類される。大人1000円、中高生600円、小学生400円、小学生未満は無料。
    • 障害者手帳保有者は、本人に限り半額(等級によっては付添人も半額)
  • 団体料金(20名以上・100名以上)

ただし、生野銀山文化ミュージアムの場合は別途100円が必要。

休館日

  • 12月 - 2月の3か月のみ毎週火曜日(火曜日が祝祭日の場合、翌日に振替)
  • 年末年始(12月29日から1月2日まで)

ギャラリー

  • 菊の門と生野鉱物館
    菊の門と生野鉱物館
  • 坑道入口
    坑道入口
  • 坑道内
    坑道内
  • 坑道出口
    坑道出口
  • 石彫の広場
    石彫の広場
  • 一円電車
    一円電車

アクセス

重要文化的景観

生野鉱山を中心とした鉱山町が重要文化的景観として選定されている。範囲は大きく四つに区分され、史跡生野銀山がある金香瀬(かながせ)地域、江戸時代の鉱山町である奥銀谷(おくがなや)地域、明治時代の近代化の拠点となった太盛(たせい)地域、明治の鉱山町で生野駅へ至る口銀谷(くちがなや)地域からなる。奥銀谷・太盛・口銀谷地域は市川に沿って発展した。

  • 奥銀谷の新町を望む
    奥銀谷の新町を望む
  • 市川護岸上のトロッコ軌道跡(奥銀谷)
    市川護岸上のトロッコ軌道跡(奥銀谷)
  • 三菱による水力発電所(太盛)
    三菱による水力発電所(太盛)
  • 旧生野鉱山社宅甲社宅(口銀谷)
    旧生野鉱山社宅甲社宅(口銀谷)
  • 口銀谷の街並み
    口銀谷の街並み
  • 口銀谷の町並み、市川沿いのトロッコ軌道跡
    口銀谷の町並み、市川沿いのトロッコ軌道跡

周辺

関連項目


外部リンク

ウィキメディア・コモンズには、生野銀山に関連するカテゴリがあります。
  • 生野銀山 - シルバー生野
  • 生野銀山(「鉱石の道」の歴史をたどる) - 朝来市
  • 朝来市 - 朝来市公式サイト
  • 『生野鉱山写真帖』(国立国会図書館デジタルコレクション)
典拠管理データベース ウィキデータを編集
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国立図書館
  • 日本
  1. ^ “生野銀山【歴史・概要】”. 株式会社シルバー生野. 2024年6月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月12日閲覧。
  2. ^ “史跡 生野銀山”. 朝来市. 2023年8月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月12日閲覧。
  3. ^ a b c 清原幹雄『生野銀山と銀の馬車道』神戸新聞総合出版センター、2011年5月20日、57-60頁。ISBN 978-4-343-00617-2。 
  4. ^ a b 小葉田淳. “生野銀山史の研究”. 京都大学. 2024年4月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月12日閲覧。
  5. ^ 実際に銀山の内山寺に対し、天正6年8月に山名氏政が寺領安堵の文書を与えているので山名氏の支配下にあったと考えられる。